- 由緒
元、秋保村領主秋保氏の勧請するところにして秋保氏の祖先平重盛の孫資元は平氏で西海に没落の折り肥前長崎に居住す。其後、平基盛に至り永仁3年8月鎌倉将軍維康親王に仕え奥洲名取郡を賜り秋保郷に住し、徳治2年左近衛将監に任じた。数代を経、平盛房に至り明暦9年深谷大曲城主永井掃部晴信の攻むるところとなり再び没落して最上山形に流浪、天童に留まること12年余、厭世の極西海巡礼を思い立ち途中信州諏訪に鎮座の諏訪神に本土恢復のことを祈願し数年後天童に帰る。時に永井氏意驕り民を虐げること甚しく非道であったから民の疾苦亦甚しく居民は盛房を慕いこれを天童より迎いその居城戸崎を攻めてこれを亡くしたる後、盛房信州諏訪の神霊を奉じ来り霊地を卜し安置し奉り祈願所としたと伝えられ、時に室町時代の永正10年(1513)であった。明治5年村社に列せられ、同40年3月供進社に指定された。同42年3月大字馬場の愛宕神社をはじめ、長袋の神明社、新川の新川、湯元の湯、境野の八幡・羽山、新川の白山の各神社を合祀、諏訪神社の社号を秋保神社と改め今日に至った。今9月15日に例祭が行われているが、各部落の神社合併以前は2月、7月27日両度に行われ、特に2月の祭典には村内五ヶ部落氏子総出動して鹿狩を行ない、之れを神に献ずる例であった。
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