- 由緒
延暦20年、坂上田村麿東征の折り社殿を建立し、護国の神として奉斎したことに創まり、康平6年源義家奥羽の叛賊討伐祈願のため社殿を再建し深く尊崇した。藤原秀衡及び葛西清重も本社宇を再建して厚く崇敬し葛西氏滅亡の後、国守伊達氏これに代って造営修覆を加えて尊信した。霊験顕著なるにより衆庶の崇敬も亦厚く、明治維新前は藩主より毎年行われる御出幣式、放生会の神事には警護(俗に浅黄於呂久と称する役人)数名派遣され、村胆入は祭日前に戸数割と称し氏子一人につき青さし七文宛を各組頭をして徴集させ、これを大祭当日御饌料として供え、大胆入、村肝入、組頭、取締役その他諸役付参向、修験正別当大阿沙梨法印明性院(現宮司家)、郡内各社職法印一同随伴昇殿荘厳な祭儀を行ってきた。明治4年5月太政官布告によって従来の修験復飾妻帯数導職に補任され、同6年村社に列格。同39年神饌幣帛料供進社に指定された。その後字中山の白山、五十鈴、稲荷、字名足の愛宕、字石浜の飯綱の五神社を合祀。正徳4年社殿改造(封内風土記)の時、奥州の名工木食の丹精を凝らした清秀高雅にして精緻を極めた社殿は、大正2年4月野火に罹り本殿、拝殿、社務所共に惜しくも炎上したので、同5年社殿起工、翌年11月一見昔日の観ある本殿の竣工を見、昭和46年には拝殿を御造営した。
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