- 由緒
順徳天皇健保5年(1217年)、鎌倉若宮(鶴岡八幡宮)の別当であった梶原専光坊僧正景實(梶原平三景時の兄)は、正治元年(1199年)の源頼朝公の死去、これを追うかのような梶原景時一族の没落、又、和田、畠山氏が滅んで行くのを見て世を憂い鎌倉を離れ蝦夷千島を目指して下り、その途中の当町石浜に辿りつきそこを切り開き住んだ。居宅の脇に一廟を建て源頼朝公(鎌倉幕府初代将軍)、梶原景時(源頼朝公第一の家臣)、梶原景季(景時の子)の御影を安置し、一族の冥福を祈り菩提を弔う為、梶原神社を崇め奉る。2年後の健保7年(1219年)一族の梶原三郎兵衛尉景茂の子である第二代大和守景永は景實僧正の後を慕いこの地に至り景實の猶子となる。景永は神職となり、早馬大権現別当として早馬山頂に社殿(奥宮)を建立した。山号は早馬山、寺号を漢曼寺と称する。祈祷所の里宮は津波により石浜より明戸と移り、今より約350年前、現拝殿が鎮座する宿浦へ遷座。正慶元年(1332年)、第五代大和守慶永の時、紀州熊野本宮より本地佛阿弥陀薬師観音を勧請し社殿を新たに建立。以後、奥宮、里宮合わせ十度の建て替えが行われる。本山派修験良厳院累世社務を掌り現宮司で三十三代目となる。仙台藩時代伊達家の祈祷師として仕え九曜紋を授かる。明治のはじめに早馬大権現より現社号に改め現在に至る。
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