- 由緒
鎮座地は、伊達の家臣中島伊勢宗求の子孫が相次いで治めた金山城(要害-山城)の南西面の急坂中腹に位置している。金山は金山城の城下町と言えるが、古来この地は交通の要所であり、宿場町として栄えた。律令時代から伊具郡ではあったが、長い一時期相馬藩の支配が続き、伊達政宗がかろうじてこれを落とし(天正落城)て、大内・宇陀郡(相馬)まで手に入れた後に中島家が城主に配置されたもので、まさしく城下町であり、現在も古塁(要害跡)付近は侍屋敷の観を呈している。中島家が祀っていた神明社(元和2年に中島伊勢が内宮の御分霊を戴いて創祀したとされている)は明治8年に村社に列せられていたが、政府の方針に従い大正5年8月、八幡神社(中島家の護り神)と天神社〔中島家が京都から分祀した社、明治8年村社に列格)を合祀して現在の金山神社と改称した。その後も「神明社」という通称はしばらく残っていた。
- 地図