- 由緒
室町時代の応永年間(1394~1427)大和の春日大社の分霊を勧請し、湊明神社又は、水門四社明神と称した。はじめは、閖上字大塚(明神堂)に鎮座あり、明暦3年神託により現在の地に遷座する。旧社殿は明治13年の火災後の再建である。明治5年村社に列格、同40年幣帛供進社に指定された。同42年竹駒・富主姫神社を併せ祀る。(宮城県神社名鑑より)。湊神社の本尊は、四大明王権現であると伝承されているが、権現名は承知されていない、「ゆりあげ水門(みなと)五大明王神」を祀る堂が、「明王神堂」で、略して「明神堂」「お明神様」と言われた。伝説によると「ゆりあげ水門(みなと)神社」が町頭により現在の地に遷座され「名取川水門神社」と言われたのは明暦年頃(1655~6)だと言う。別当寺は、天台宗鹿苑山物聞寺大光(前宮司、千葉家)で本尊は十一面観世音菩薩だと伝承されている。明治維新の神仏分離令により湊神社になったとき、本尊仏は観音寺に、五大明王神は出羽三山修験道場の醐醍山天正院(湊神社所有)に移された。天正院には、修験者の信仰する月山(阿弥陀仏)羽黒山(観世音菩薩)湯殿山(大日如来)蔵王権現が祀られている。ゆりあげ水門(みなと)五大明王神とは、中心に「不動明王」(ふどう)、東に「降三世明王」(ごうざんぜ)、南に「軍茶利明王」(ぐんだり)、西に「大威徳明王」(だいいとく)北に真言宗系では「金剛夜叉明王」(こんごうやしゃ)が祀られるが天台宗系では「鳥栖渋摩明王」(うすさま)が祀られる。ゆりあげ水門五大明王神の中心仏、不動明王は藤塚(閖上より名取川を挟んで対岸)の熊野権現堂に祀られ五大権現堂と称されたが、神仏分離で「五柱神社」となり、不動明王は近くの高福寺に移され火災により消失した。現在天正院には五体とも祀られているが、不動明王に関しては、後に復元したものとされる。五大明王は、我が国が仏教伝来以降より五壇法の本尊として密教寺院に安置され、五大堂とされた(松島の五大堂など)。「ゆりあげ水門五大明王神」は名取川河口の水門の鎮護として蝦夷征伐当時に祀られたものであろうとされる。(文化財保護委員 氏家重男編より)
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