- 由緒
抑も当村熊野神社の御由来は、往昔後醍醐天皇の御代にして、広応2庚甲歳なり。我が東北の地たるや元蝦夷地にして、源頼朝公、平泉に城を構へ、出羽奥州に威を振にたる。藤原秀衡を討って之を亡ぼすや、東北の地は爰に全く皇沢にうるほふ事を得たり、此に於て頼朝公は近畿中国の農民を東北の地に移殖し、専ら開拓の事に当らしむ。吾が宮崎の地には多く、紀州の移民を入れ、只管開墾に従事しせめらる。此に於て、開拓の事業も年月と共に進み、移民の生活も次第に安定を見るに至り、望郷の情巳み難きものあって、故郷の氏神たる熊野の神を奉斎せんことを謀れり。仍て事を紀州の本社に請うところありたりき。本社は直ちに此懇請を容れ茲に熊野の社士藤原重密に御分霊を授け、以て速に下向し懇ろに鎮祭すべきを命ぜり。重密此重大の使命を帯び、海路潮の岬より北東を指して奥州に進発せり。満帆に風を孕み、連日運行を続け、常陸の沖に達せり、此の時不幸にも暴風に遭遇、船は漂蕩覆没の厄に会いぬ。御神躰を失うのみならず、重密も亦漂流、数日にして常陸の海岸に着するを得たり。重密止むなく、陸路海岸に沿い、神躰をもとめつつ、磐城に入り、更に進んで、奥州桃生郡深谷の庄浜市に達せし時、漁民八十郎という者、一日の漁に出でけるに、豊作の湊の沖合にて、光明を発しつつ浮流せる物を発見、奇異の思をなしつつ、近づきて之をうかがえば、紛ふ方なき二つの神體、而も獅子の上頭に乗り給えり。八十郎はじゅん朴、素より信仰の篤き者なれば、稽首再拝恭しく己が船中に遷し奉り、漁を中止して吾が家に還りぬ。されど八十郎、家貧にして祭壇とても無く祀るに所なし。八十郎突作に私案して、在りし古臼を座上に伏せ、こもを敷き、御神体をその上に安置し奉り、朝夕礼拝怠りなしとの事を聞きぬ。重密この事を聞き、心中潜かに喜び、急ぎ八十郎の家に訪れぬ。重密、八十郎に向い、事の始終を話しければ、八十郎も手を打って喜び、貴人の来訪を謝し、餐応飯食互に語り合い一夜を明けしけりと言う。重密数日此処に逗留、八十郎は神体を重密に奉り、共に連れ立ち、鳴瀬川に沿うてさかのぼること数日、田川の庄、白萩の里に達しぬ。(現在の宮崎の地なり)既に待ちに待ちたる移民たち、御神体を迎え奉り、いたく喜び大に歓待したりという。かくて此処より里余さかのぼり同邑三ケ内まで到りしも祀るに適地とてなかりしかば、引き返して、田川の支流烏川に沿うてさかのぼり、北川地に行きぬ。されど此地にも祀るに適地なく再び返して、宮崎の地、貴明山の麓に到り、初めて恰好の地をもとめて此処に鎮祭し奉る事となせり。此地は三方翠らんに囲まれ、前方広く大崎平野に連り、南南方遥に荒神山、遠船原を望見、東南に当っては、泉ケ岳、七ツ森の遠景を眺め、東方は遥に箆岳、又、石巻の山々や金華山までも見え、実に広かったる平野、風景も亦眺望絶佳の地と称すべし。然も貴明山は中央に一段高く、東は館の山、西には狐ケ峰低く恰も山字形を成し、絶好地というべし。斯る霊地をもとめたる里民達大に悦び、勇み進んで社殿を造営し、永へに鎮め奉り、社号を熊野神社と称し奉り、3月、6月の15日、秋は9月7日を祭日と定め祭典を行う事とせり、当時神社の尠かりし時代いと珍しく遠近より厚き尊崇を受け給えり。祭祀は怠なく毎年行われ、社運も年と共に隆昌に趣き、爾来、十数星霜を経、南北朝初期、足利三管領の一家、左京大夫斯波の家兼奥州探題を命ぜられ、遥々下向、中新田、名生等の御所に居館、大崎5郡を領有、奥州第一の武威を振えり。大崎氏は厚く当社を尊信して神領25貫文、250石を寄進し、重密より5世宮崎外記重寛を神主職に補し、之を領有すべき旨の命あって之を領有、又上京すべき由の命あって上京、美濃守に任ぜられる。又更に社士12人を附し、大崎5郡の総鎮守一の宮の称号を奉らる。是に於て社運も弥々隆盛を加え、5郡中唯一の大社とはなりぬ。毎年正月には社士一同熊野の宝殿に参籠すること5夜、5日の暁に至り神殿の屋上に清浄の精神を込めたる小形の餅、東西に各12個づつ献じ、而して後、五穀豊饒の祈願を厳修す。さすれば霊鳥いづくよりか来って供餅をついばみ、以って東西に運飛す。賽者其状を観て豊作の端兆となし、各歓喜して神階を下る之を万歳楽と称す。事公聴に達すれば、更に一陽来復を期し祈祷すべきの命あり、仍て復び熊野の宝殿に昇り、行を修する事二夜三日、満願に達すれば、再び公聴に達し其命に依って五穀豊饒の神礼、大崎5郡に領布せり。而して5郡の大庄屋は、毎年其郡を代表して熊野の宮に詣すること又古例なり。天正18年家兼より12代左衛門督義隆に至り秀吉公の小田原征伐に不参の科により、領地没収され、残党は宮崎城に立籠り、太閤の奥州仕置に返乱せしに、政宗公に攻められて、遂に落城断絶に終りぬ。為に神領も悉く没収せらる。かくて承応1年、政宗公の家臣石母田永頼、栗原郡三ノ迫、岩ケ崎より宮崎の地に移封、5000石の地行を領せらるや、先例に従って神領5貫文50石の料田を寄進せり。然るに復、宝暦7年石母田氏は栗原郡高清水に移封となり、之に代って古内義清小野田より宮崎に移封300余石を領有せらる。これ又先例を追うて3貫文30石の料田を寄進せらる。されど社運は昔日の如くならず、社士も5人となり衰頽に向う止むを得ざるものあり。是に於て重寛より11代、外記常孝、羽黒派に属して修験となり西明坊西念と改め、追年羽黒に入峰、修行を重ねて権大僧都に昇進せり。熊野の宮に奉仕して社運の挽回に精進せり。祭事は伝統を確守して、昔日と変わりなく厳修におこたりなし、又先例に従い23年毎に(今、21年目毎なり)桃生郡深谷の庄、浜市邑、鳴瀬の河口、豊作の湊に神輿の渡御あって、潅潮の行事を執行す。俗に之を潮垢離と称す。浜市地区、近郷近在より参拝するもの万を以て数え、盛大なる祭儀が行わる。以上行事は神代の昔、伊弉諾大神、日向の橘の小門のあはぎ原にて、みそぎ祓を行いまいし故事に倣えるものなり。今一つには、熊野の大神は浜市に御上陸而して鳴瀬川を伝えてさかのぼり、此宮崎に鎮り給う歴史に起因す。八十郎の子孫は、今尚連綿として繁栄し、代々八十郎の名を以って継承し、古臼は同家に現存、神体浜市に到り座せば此古臼の上に安置し奉る古例なり。
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