- 由緒
本社は元禄6年佐沼大火の際類焼にかかり旧記を失った為勧請年月を明にすることが出来ないが、「日本地誌提要」に武烈天皇の御代或は聖武天皇の天平2年の創建にかかるとあり。藤原秀衡奉納の経文金光経全巻もあったことも羽生氏所蔵古文書に記されている。文治年間源頼朝藤原氏征討に際し尾州津島神に祈願戦勝報賽の為同5年4月栗原郡北方村(今登米郡迫町北方字大形山)に其の分霊を勧請し当時の管領葛西西伊予守に命じ、同月28日付を以って知行三十貫文を社領として寄進、佐久間左衛門尉定義をして社務を司らしめた。葛西大崎の残徒乱を起し佐沼城に籠城するや、伊達政宗これを攻めたが城は固く抜く能はず政宗は万策尽きて当社に祈願したところ神験あり城を陥すことが出来たので、慶長19年領主津田民部景康に命じ当社を天形山より現八日町の南端に移祀し、社殿は佐沼城に向って北に建立佐沼郷(旧佐沼町、北方町、新田村、南方村、及栗原郡藤里村)の総鎮守祇園牛頭天王と称し奉る。伊達藩より直接儀仗隊を出して警固の任に当らしめた。延宝3年津田家4世春康の代に至り、爾後津田家より警固隊を出すべき旨文書あり。宝暦7年亘理要人倫篤移封されるや、亘理家に於いても先例を受けて崇敬篤く祭祀を厳修した。文化6年2月火災の為め本殿外34棟灰塵に帰したが、天保4年6月本殿、幣殿、拝殿、随身門、神庫、神饌殿、末社等を再建した。明治3年6月登米県より「佐沼郷鎮守津島神社」と改号、同5年水沢県に於いて県郷社設定の際同年3月第二大区郷社に列したが同8年区画更正一大区郷社一社の定規により改めて村社となり、大正10年12月更に郷社に烈せられた。これより先明治40年3月供進社に指定されている。同45年3月佐沼町に大火あり社殿悉皆鳥有に帰したので大正7年より昭和3年迄の間にこれが復旧の工を竣え今日に至った。
- 地図